良かれと思うことと、相手が望むことは、必ずしも同じではない。
先日、ある出来事から、そんなことを考えました。
パソコンで作業をしようとすると、
画面にいろいろな提案が表示されるようになりました。
便利な機能を知らせようとしているのでしょう。
使う人の役に立つように、親切心から考えられた仕組みなのだと思います。
これを便利と思う方々は、たくさんいらっしゃると思います。
でも、私にとっては必要のないものでした。
むしろ、表示されるたびに気になり、消すことに手間がかかる。
「必要な人には便利でも、必要のない人には邪魔になることもある」
そう思ったとき、以前の出来事を思い出しました。
どんなに良い話でも、聞きたくないときがある
以前、仕事をしていたときのことです。
外から人の話し声が聞こえてきました。
話している人たちに悪気はありません。
楽しい話だったのかもしれませんし、
誰かのためになる話だったのかもしれません。
でも、そのときの私は、静かな環境で仕事に集中したかったのです。
結局、仕事を中断することにしました。
話の内容が良いか悪いかではありません。
そのときの私が、それを望んでいなかった。
ただ、それだけのことなのです。
この時、初めて気が付きました。
望んでいない相手の気持ちが…。
親切は、誰のためのもの?
私たちは日常の中で、誰かのためにと思って行動することがあります。
「教えてあげたほうがいい」
「手伝ってあげたほうがいい」
「きっと喜んでくれるはず」
そこには、相手を思いやる気持ちがあるのでしょう。
でも、少し考えてみたいのです。
それは、本当に相手が望んでいることでしょうか。
自分が良いと思うことを、相手も良いと思うとは限りません。
助けてほしい人もいれば、自分の力でやってみたい人もいます。
話を聞いてほしい人もいれば、今はそっとしておいてほしい人もいます。
同じ人であっても、そのときの状況や気持ちによって、望むことは変わります。
つまり、親切の形は一つではないのです。
「してあげる」と「寄り添う」の違い
ここで、もう一つ考えたいことがあります。
それは、「してあげる」という気持ちと、
「寄り添う」という姿勢の違いです。
「してあげる」は、自分が良いと思うことから始まる場合があります。
一方、「寄り添う」は、相手が何を望んでいるのかを知ろうとするところから始まるのではないでしょうか。
もちろん、相手の望みをすべて理解することはできません。
相手自身も、自分が何を望んでいるのかわからないときがあります。
だからこそ、決めつけないことが大切なのだと思います。
ときには声をかける。
ときには手を差し伸べる。
そして、ときには何もしない。
何もしないことも、相手を尊重する立派な思いやりなのかもしれません。
親切の価値を決めるのは誰?
親切にしたつもりなのに、相手が喜んでくれなかった。
そんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
そのとき、「せっかくしてあげたのに」と思ってしまうこともあるでしょう。
でも、それは相手が悪いわけでも、親切にした人が悪いわけでもありません。
ただ、お互いの思いが違っていただけなのかもしれません。
親切にしようとした気持ちは大切です。
けれど、その気持ちがあるからといって、
相手が必ず受け入れなければならないわけではありません。
親切は、差し出す側の気持ちだけで完成するものではない。
受け取る側の気持ちがあって、初めて意味を持つものなのではないでしょうか。
最後に
今回、何気ないパソコンの画面表示から、
人との関わり方について考えることになりました。
便利にしてあげたい。
喜ばせてあげたい。
助けてあげたい。
その気持ちは、決して悪いものではありません。
でも、その前に一度だけ、考えてみたいのです。
「これは、私がしてあげたいこと?」
「それとも、相手が望んでいること?」
この二つは、似ているようで違います。
本当の思いやりとは、自分の親切を届けることだけではなく、
「相手がそれを必要としているかどうか」
に目を向けることなのかもしれません。
そして、相手が望んでいないとわかったときには、
そっと引くことのできる優しさも持っていたいものです。
今日も、温かい眼差しで…

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